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渡嘉敷島(とかしきじま)の集団自決(わたしの体験)
安座間 豊子
昭和20年3月23日、朝の10時ごろから、島(渡嘉敷島)は大空襲を受けました。私たちは壕の中にいました。バリバリバリ、機銃掃射の音が間断なく聞こえていました。焼夷弾がつぎつぎに爆発して家が燃えます。すさまいしい空襲でした。……
24日の晩、西山へ避難命令だと連絡員がいってきました。「ここは敵が上陸するらしい。西山が安全だから集まりなさいといっているよ」
それでみんな西山へ向かって歩き始めました。
……母が弟をおんぶして、私は妹の手を引いて、親せきの人たちと西山めざして、足を引きずるようにして、互いに励まし合いながら登って行きました。
いつしか、しらじらと夜も明けていきました。山の谷間にすわって、だれもぐったりと疲れた体を休めていました。
しばらくして、全員集まるようにいわれて、みんなが集まると、村長が立ってしゃべりはいしめました。
「生きていても、みんなウランダー(外国人のこと)に目を抜かれたりして殺される。島も包囲されて逃げることもできない。もうこうなったら全員死んでいこう。皇国の勝利を祈って、運命をともにしよう」
というと、はじめは騒然としていましたが、一瞬シーンとなりました。400名くらい集まっていたと思います。隣の阿波連部落からもきていました。
……Aさんという巡査が、私の叔父に手榴弾の使い方を教えていました。
「信管を抜いて、そのまま投げないで、握ったまま爆発させなさい」と、回りながら、とまどっている人に教えていました。
みんなに手榴弾が配られると、最後は、〃天皇陛下バンザーイ″と3回繰り返しました。それから信管を抜いたので、バーン、バーンとあっちこっちで手榴弾が炸裂しました。泣き声や叫び声があちこちで聞こえました。倒れている人、死にきれずうめいている人、まさに地獄絵図でした。
私の家族も親せきとともに円陣を作ってすわり、叔父が手榴弾の信管を抜きました。しばらくして、ものすごい爆発音がしたので、一瞬目をつぶりました。そして、しばらくして、こわごわと目を開けて叔父の方を見ると手榴弾を持っていた叔父の手は、真赤に血に染まって、花が咲いたようでした。皮と肉は全部とれてしまい骨だけになっていたのです。その片手を上に挙げ、叔父は倒れていました。
叔母が抱いていた2歳になる乳飲み子は、頭がふっとんでなくなっていました。その子の頭を支えていた叔母の3本の指もなくなっていました。義理の妹、その妹、主人、子ども2人も一瞬にして死にました。……
足の置き場がないくらい大勢の人が死んでいて、集団自決はなおも続いていました。今度は、手榴弾で死ねなかった人たちが、自分の身内を片っぱしからクワ、ナタを持ち出して殺しているのです。私はブルブル震えていました。
若い母親が、自分の幼い子どもを4人すわらせて、1人ずつ、ナタで2回3回と切り刻んでいるのです。子どもは何の抵抗もしないで、じっと黙ってすわっていました。……
片方では、阿波連の人が、嫁の腹に二つ刃のクワをつきさしていました。嫁の腹わたがブッと鮮血といっしょに飛び出しているのです。
ワァワァと泣き叫ふ声が騒然と続いています。私の妹は絶対に死にたくないというので、逃げ出さないように手をつかまえて、腹ばいにさせ、私は妹の上にうつぶせになっていました。妹が動くので私の体も動きます。すると、
「まだ生きているのか」
といって、木の根っ子のような棒で頭を一撃されました。目から火花が出るような衝撃で、私はそのまま意識を失ってしまいました。
しばらくして意識は戻りましたが、頭はもうろうとしていました。あっちこっちで、
「クルチクミソーレ(殺してください)」
「タシキティミソーレ(助けてください)」という声がします。
……村でただ一人のお医者さんの一家は、家族8人全員が自決しました。そのお医者さんは、手榴弾の信管を抜いても爆発しなかったので、「何か持っていないか」
と家族にたずねたのです。
「お父さん、ぼく小刀持っているよ」
と12歳の長男がいいました。それは肥後の守″という小刀です。
医者は、
「お母さんからね」
といって、さっと妻の首の頸動脈を切りました。ブッと鮮血があたりに吹き出してウーン″といったきりぶっ倒れました。私は意識もうろうとした中で、一部始終を見ていました。
このようにつぎつぎと自分の身内を殺していったのです。医者は家族を全部殺し終わると小刀を木の股にくくりつけて両手で木にぶらさがり、首を小刀にグサッとつきさして、そのまま木から落ちて死んだのです。……
【資料出所:大田昌秀『戦争と子ども − 父から、戦争を知らない子たちへ −』那覇出版社 年 pp.57-61。より引用】
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